ビールとショートケーキのあるテーブル

その当時、ビールを飲むことは僕にとって習慣となっていた。季節がいつであろうと、時計が何時を指していようと、明日という日にどんな未来が迫っていようと、僕はビールを飲みつづけた。それは傍から見れば、ピラミッドを作るために巨大な石を運びつづける古代エジプト人のように映ったであろう。あるいは日本語のアクセントを習得するために、「共産党」という単語を狂ったように連呼する日本語学習者に見えてもおかしくはなかったはずだ。習慣とはそんなものだ。
とにかくその当時、僕はビールを飲み続けていた。ビールを飲むということが、僕にとっての唯一の生きる理由になっていた(少なくとも僕は当時、真剣にそう思っていた)。毎夜僕がベッドに横になる頃には、20本を超えるのビールの空き缶がキッチンの流し台に鎮座していた。そして毎朝僕は起きると、その20本を超える空き缶を黒いゴミ袋に詰め、冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出し飲んだ。毎日毎日、そんな風にして、ただただ平板に過ぎていった。その時期に、僕はビールのつまみとして、191冊の本を読んだ。
 
そんな日々が急に終わりを告げたのは、2001年8月17日だった。

「ショートケーキにチューリップを乗せてみました!期間限定!」

そのケーキ屋は、僕がビールを買うと決めているコンビニの近くにあった。その日の夕方、冷蔵庫のビールが尽きてしまったので、僕はそのコンビニに向かう途中であった。
そのケーキ屋は実にひっそりとした佇まいだったので、通りがかりの人にとっては見過ごしてしまう確率の方が高かった。エントランスには何の装飾も施されていないし、そもそも看板すらないのだ。そんなのってケーキ屋と言えるかどうかすらも怪しい。
 
「ショートケーキにチューリップを乗せてみました!期間限定!」

しかしその日はエントランスらしきそのケーキ屋のドアに、そのポスターが張ってあったのだ。そのおかげで少なくとも、そこがケーキ屋であるということはわかる。僕は日々飲みつづけたビールのせいでぼんやりした頭のまま、そのドアをくぐった。僕は他の花は名前すら知らないくせに、チューリップだけはやけに好きなのだ。

「いらっしゃいませ」とケーキ屋の主人らしき、小太りな男が実に愛想よさそうに僕に挨拶をした。その店には僕以外客はいなかった。その上、普通のケーキ屋にあるようなディスプレイすらないのだ。どうやって欲しいケーキを選べばよいのだろう。
「ええと、チューリップを乗せたショートケーキがあるって入口のドアに書いてあったんだけど。」僕は酔っているなりに注意深く言葉を探してその男に告げた。
「ええ、もちろんございますとも。というか、うちの店ではチューリップ・オン・ザ・ショートケーキしか扱っておりませんのでして。申し訳ありません。」
「チューリップ・オン・ザ・ショートケーキ?ええと…そういう名前なの?」
「はい、申し訳ありません。うちの店ではそう呼ばせてもらっていますもので。」
髪の薄くなった頭を下げながら主人は言った。主人は謝るのが趣味であるようだ。
「それは…ええと、なんて言うかな、それはいわゆる一般的なショートケーキに通常乗っているイチゴの代わりに、チューリップを乗っけたようなものなの?」
僕はいっそう気を確かに保とうと心掛けつつ、そう主人に尋ねてみる。
「チューリップ・オン・ザ・ショートケーキでございますか?」
「うん。」
「申し訳ありませんが、それはお客様がご自分の目で確かめていただくのが一番だと思います。先にも申しましたが、うちの店にはチューリップ・オン・ザ・ショートケーキしか置いておりません。その…なんですよ、申し訳ないとは思っているんですが…。えー、誤解がないように申しますと、名前というものはことごとくメタファーです。この世に存在する名前の99.9999パーセントはメタファーとしてその役割を果たしているのです。これは疑いようのないことです。だから私は、この世における名前の存在意義に敬意を評し、そのケーキにふさわしい名前を付けたまでです。チューリップ・オン・ザ・ショートケーキと…。申し訳ありません。」
主人は一気にそうまくしたてた。僕の頭はますます混乱していった。
「じゃあ…ええと、それをひとつください。」と僕は注文した。
「チューリップ・オン・ザ・ショートケーキでございますね?」
「うん。チューリップ・オン・ザ・ショートケーキを一つ。」
「かしこまりました。」

その後、主人はその店の奥に引っ込み、4分後小さな箱を持って僕の前に再び現われた。御丁寧にその箱には赤いリボンが巻かれていた。それは浦島太郎が乙姫からもらった玉手箱のようであった。封をといた途端にその箱から白い煙が噴き出してきても、少しも不思議ではない気がした。
「ありがとうございました。またよろしくお願いします。」と主人は言った。どうやら謝罪の言葉以外の挨拶も知っているようだ。
僕は380円払ってその店を出て、コンビニに行ってビールを1ダース買い、家に帰った。そして、真っ白いテーブルの上に缶ビール一本と、チューリップ・オン・ザ・ショートケーキを置いてみた。
 
チューリップ・オン・ザ・ショートケーキは、名前の通りショートケーキの上に黄色いチューリップの花が飾られただけのものだった。それ以外の特徴は何もない。僕はぼんやりした頭のまま、テーブルに置かれた缶ビールとチューリップ・オン・ザ・ショートケーキを飽きることなく見つめていた。そうすることがあの奇妙なケーキ屋の主人に対する、この上ない、そして唯一の讃美になると思えたのだ。

それが2001年8月17日の出来事である。それ以来僕はビールを飲むのをやめた。なんというか、僕にそんな暇はなくなったのだ。



今日のBGM
Sine/Cymbals

Sine/Cymbals

POPでスウィンギーな軽快さが売りのCymbalsですが、このアルバムではちょっと実験的な音楽に挑戦しています。でもまたそれが悪くないんですよ。なんかこれまでと違って夜に聴きたくなるCymbalsって感じですね。まあこのアルバムに限らず、フレンチ・ポップ的なファッショナブルな音楽を求めている人にはお勧めです。

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