目的と手段

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2005021100019&genre=C4&area=S10

(゜Д゜)ハァ?

って感じじゃないですか?これを論理の飛躍と言わずになんというのでしょうか。大の大人のする議論とは到底思えない。ある個人Aが六曜を信用することによって、どうしてそれが別の個人Bの人権を侵害することになりうるのでしょうか。わけがわからない。

六曜について物申している人権団体の方々は、本来差別という理不尽な人権侵害とも言える行為を撲滅することを主要な目的の一つとしているはずです。その目的は間違ってないと思うんですが、しかし、そのための方法、主張が大幅にずれているような気がしてしまうんですよ。女性の権利を主張する団体が、名簿が男女別に記載されており、且つ男性の名前が先に記載されているということに対して女性差別だ!と叫んでいることにも同じ臭いを感じます。

それをして何がしたいんだと。何を達成したいのかと。六曜を排除するという方法は、差別撲滅という目的に対して本当に実効性を持つのかと。男女混合名簿にしたところで、女性の権利は本当に向上するのかと。僕は象徴とは主観的なものであり、その主観的象徴を主観的方法をもって一時的に打破したところで、客観的事実の本質に何かしらのダメージを与えられるとは思えないのですが。

あー腹が立つ!むかつく!思い込みとは想像力の停止の末に起こる悲劇的結末。まあ僕ら人間はその不完全性ゆえ、多くの場面において思い込みという過ちを犯してしまいます。もちろん僕も含めて。ただ、ロジカルな考察を辿ることなく、客観的反証一つ考えないで(恐らく想像力の停止のため)、それを平然と垂れ流してしまうことを僕は憎む。あらゆることに対して公正さを求めることは極めて困難であるが、あまりに安易にそうすることを諦めてしまうことは、僕の憎悪の対象である。

あーすっきりした(・∀・)。